これは私が高校3年生になった頃、進路に悩んでいた時のお話です。
私は神奈川県の進学校におり、成績も全体の1/3くらいの上位におさまる「中の上」でした。
私の夢は「人の役に立つものを作る」という漠然としたもので、具体的に何をどうやって「人の役に立つものを作る」かは、分かりませんでした。
若い時はそんなものです。目標も分かりません。
しかし、決めないといけない時期は確実に訪れます。
3年生になると進路を決めて、文系・理系に分かれて大学受験とその後に有利な授業を受けられるようになりますが、ここでも漠然と「理系」と考え、一択で進むことにしました。
考えてみると、この安易な選択が後々面倒になってきます。
そんな私にもいくつかの人生の選択肢がありました。
こんなに目に見える分岐が多かったのはこの時が最初で最後だったのでしょう。
ひとつめの選択肢
私は陸上部に所属していました。
200Mと幅跳びとやり投げを専門種目としている良く分からない人でした。
どの種目も県大会レベルで、そこより上には行けない能力でした。
私の周りには凄い選手が多く、特に別の学校でしたが一緒に練習していた400Mハードルの選手は、後にアジア大会で金メダルを取りました。
そういう選手たちを間近で見ていると、もう陸上で先には進めないと感じたものです。
そんな時にその人と同じ学校の私と仲の良いハンマー投げの選手が、一緒に日体大に行って体育教師になろうと誘ってくれました。
これは嬉しかったですね。
ただ、3年生の5月の県大会で私は身体を壊してしまいました。
朝練・夕練を行い、家に帰ると夜遅くまで受験勉強をしました。
そんな無理が祟って、スポーツ性心臓肥大症になりました。
とにかく「運動はやってはいけない」ということになり、休養。
私の浅黒かった肌は3日で真っ白になっていました。
こうして私は陸上と日体大をあきらめ、「体育教師」の選択肢は消えました。
これは小さい挫折のひとつです。
いくつかの選択肢
私は中学から高校に上がる際に「おまえはその進学校に100%落ちる」と担任の先生に年中言われていたので、悔しさから自分を追い込めるだけ追い込んでその高校に受かりました。
その影響か、勉強するのが全く苦にならなくなっていたので、高校の進んだ授業が面白くてたまりませんでした。
そんな中でも気になっていたのが生物の遺伝子の授業あたりから入っていった「分子遺伝子学」です。
高校2年の時に同級生が白血病で亡くなりました。
そのあたりから医者や研究者になって世界を救う仕事をするのもいいかと浅はかな考えを持っていました。
高校3年になって担任の先生から東京理科大の基礎工学部の推薦入学が取れる話をいただきました。これはラッキーです。試験なしで入れるなんてラクです。
しかし、私は断ってしまいました。もう一つの道に全てを賭けてみようと決めてしまったのです。
選んだ夢は
もう一つの道は「美術大学進学」でした。
3年生になって繰り返していたのは、今まで何をやってきたかを思い返す作業でした。
私は中間テストや期末テストが始まると、試験勉強と並行して何かを作り始めます。
ペーパークラフトだった時もあれば、矢じりや石包丁などの石器だった時もあります。
「何かを作ること」これが私の長くやってきたことで、人に喜んでもらえる事だったと気づいていました。
しかし周りからは、高校3年の夏から予備校行ってもメジャーな美術大学には入れないなどと散々言われました。
まぁ、言わせておけばいいさと根拠の無い自信だけが残りました。
夏期講習から芸大美大進学予備校に入りました。何をやっても初心者なら怖いものがありません。
とにかくいろいろな本を読んでやり方を頭に叩き込んでから、その方法論で手を動かして失敗する毎日でした。
しかし12月の中旬くらいに夜の道を歩いていると、急に周りの色や形が「見える」ようになってきました。
空間と形状が把握できるようになったのでしょう。
そのあたりから2月の受験本番までに一気に伸び続け、確か28倍くらいの倍率の美術大学の工業デザイン学部に合格しました。
その学部は有名一流企業へのデザイナーでの就職率は、ほぼ100%ときています。
こうしていくつかある選択肢のひとつをうまく選んでデザイナーになれました。
当初の夢に従って
しかしこれはもともと望んでいた「人の役に立つ仕事」から逸れてしまっていたので、8年程度で退職しました。
これも小さな挫折のようなものですが。
現在はバーチャルリアリティのクリエーターを25年ほどやっています。
今は医療や考古学・心理学・天文学など幅広い分野で人の役に立てるものを作り続けていると信じています。
私はこんな感じでしたが、方法は分からなくても、自分がしたい最終目標をしっかり心に持っていればその目標には近づけるのではないでしょうか?